内定は出た。条件も納得した。あとは辞めるだけ。
なのに上司に切り出せないまま一週間が過ぎる。この段階でつまずく人は本当に多いんです。しかも誰にも相談できない。転職活動の中で最後の工程がいちばん孤独です。
この記事は人事として引き止める側にいた立場から書きます。退職の申し出が上がってきたときに、上司に「まずこう聞いてください」と伝えていた側です。で、内側から見ると引き止めには驚くほど型がある。
先に台本を見てしまえば、怖さの大半は消えます。
自分でも転職で切り出した経験があるので、切り出す側の心臓の重さも分かっているつもりです。あの、上司の予定表とにらめっこして言い出せない感じ。あれはしんどい。
引き止めの台本は、4パターンしかない
引き止めのパターンと、その内側
順に内側を書きます。
「今は困る」型。最も多い。そしていつ切り出しても言われます。
繁忙期じゃなくても、期末じゃなくても、「今」は常に困るタイミングなんです。人手が余っている部署なんてまずないので。ここで「では3ヶ月後に」と譲ると、3ヶ月後にも同じ会話が発生します。
条件提示(カウンターオファー)型。昇給や昇格を持ち出される。これは本気のこともあります。
ですけど人事側の内情を書くと、カウンターオファーで残った人の多くは1〜2年以内に結局辞めます。そもそも金額が理由で辞めようとしていた人が少ないからです。あと残った側にも影響がある。「一度辞めると言った人」という記録は社内で消えません。昇進の判断で参照されることは実際にあります。
否定型。「うちを辞めて通用すると思うか」。
これがいちばん感情に効く手です。そしていちばん根拠がない。あなたには既に他社の内定が出ていますよね。市場が下した判定のほうが上司の主観より正確です。
「認められない」型。これは単純に事実誤認です。次の章で書きます。
法的に、あなたが守られている線

怖さを減らす一番の材料は法律です。
3つだけで足ります。
1. 退職に会社の承認は要らない。期間の定めのない雇用契約は、労働者から解約を申し入れることができ、申入れの日から2週間の経過で終了します(民法第627条第1項/e-Gov 民法)。「認めない」「受理しない」と言われても、法的には成立します。就業規則に「1ヶ月前まで」と書いてあることが多く、実務では就業規則に従うのが円満です。ただ最終防衛ラインは2週間だと知っておくと交渉の足場がまったく変わる。
2. 有給休暇の消化を、理由なく拒めない。年次有給休暇は労働者の権利で、会社は事業の正常な運営を妨げる場合に時季を変更できるだけです(労働基準法第39条/e-Gov 労働基準法)。退職日以降に振り替える先がない以上、退職前の消化は実務上通ります。
3. 損害賠償を持ち出されても、実務上まず成立しない。「辞めるなら損害賠償だ」は引き止めの最終手段として稀に出ます。ただ通常の退職で認められた例はほぼない。
この3つを知っていると、上司の言葉が「規則の説明」なのか「引き止めの交渉」なのかを自分で区別できるようになります。
知識はお守りです。区別できれば、もう飲まれない。
自分では言い出せないとき(退職代行について)
本人が伝えられないときに使われる退職代行というサービスがあります。事実として押さえておくことが1つ。弁護士や労働組合ではない民間業者は、会社と交渉ができません(有給の消化日数や退職日の調整は交渉に当たります)。できるのは意思を伝えることまでです。交渉が必要な状況なら、誰が代行するのかで結果が変わります。
切り出しの手順。順番を間違えない
退職を切り出す実務手順
いちばん大事なのは③です。
「転職を考えているのですが、どう思われますか」と相談形式で入ると、上司は「引き止められる余地がある」と判断します。ここで台本が起動する。逆に「◯月末で退職いたします。ご相談は退職日の調整についてです」と言い切ると、会話は引き止めではなく調整に切り替わります。論点を最初から後ろにずらしてしまうこと。これが唯一かつ最大のコツだと思っています。
①も外せません。人事にいると、上司を飛ばして先に相談が来ることがあります。そのとき人事が最初にすることは「上司には話したか」の確認です。話していなければ結局そこに戻される。しかも上司は「自分だけ知らなかった」ことに反応します。
順番を守るだけで摩擦は目に見えて減ります。
⑤について。転職先を聞かれるのは自然な会話ですが、答える義務はありません。同業への転職なら特に慎重に。「業界は近いですが、詳細は差し控えさせてください」で十分通ります。人事として見てきた限り、ここを詳しく話して良いことは正直あまりありませんでした。
引き止めが本気だったときだけ、一度考える
すべての引き止めが台本というわけではありません。本気で困っている引き止めもある。
見分け方は一つ。具体性があるかどうかです。
「役職を用意する」「異動先を確保する」「◯月に昇給を通す」と、日付と手続きが伴う提案は本気の可能性がある。逆に「これから考える」「前向きに検討する」は時間稼ぎです。人事側として稟議を回せる話かどうかはその具体性で判別できます。
本気の提案が来た場合でも、判断基準は一つに絞ってください。「辞めたい理由がその提案で本当に解消するか」。年収が理由なら解消するかもしれない。でも転職の判断軸を整理したときに出てきた本当の理由が仕事の中身や人間関係や将来の方向だったなら、昇給じゃ解消しないんですよね。私が見てきた「残って結局辞めた人」はほぼ全員がこの取り違えをしていました。
引き継ぎと、最後の1ヶ月
退職が決まったらあとは事務です。
ここで揉める要素はほとんどありません。
- 引き継ぎ資料は、後任がいなくても作る。後任未定を理由に退職日を動かす必要はありません。資料を残せばそれが誠意の証明になります。
- 返却物と受領物を先にリスト化。保険証・貸与PC・入館証を返し、離職票・源泉徴収票・年金手帳・雇用保険被保険者証を受け取る。離職票は退職後の発行になるので送付先だけ確認しておく。
- 同僚への公表タイミングは上司に委ねる。先に周囲へ言うと上司の管理責任の問題になります。
- 最終出社日と退職日を分けて認識する。有給消化を挟む場合はこの2つが別の日です。書類上の在籍は退職日まで続きます。
最後に人事としての実感を一つ。世に言う円満退職は、相手に気を遣い切ることではなく、順番を守ることで達成されます。辞め方は残る人より辞める人の記憶に長く残ります。気まずいまま去った人はその後何年も、その会社のことを思い出すたびにちょっと嫌な気持ちになる。だから円満な去り方は会社のためというよりあなた自身のためです。台本を知って、事実を知って、順番を守る。それで十分に達成できます。
退職の目処が立ったら、次は入社側の話です。→ 入社初日から3ヶ月の立ち回り / 承諾の判断がまだの人は内定承諾・辞退の判断と作法へ。シリーズの地図は転職活動の全体地図です。