退職日が決まって、引き継ぎ資料を作り始める。

やってみると終わらないんですよね。手順を書き出すとキリがなく、しかも書いているうちに「これも要るかも」が増えていく。かといって雑に済ませると、辞めたあとに電話が鳴る。

先に結論を。分厚い資料を作った人ほど、辞めたあとに連絡が来ます。

人事として退職手続きを回す側にいました。引き継ぎが揉めた案件と、静かに終わった案件の両方を見ています。差がついていたのは資料のページ数ではありませんでした。

揉めるのは、判断基準が引き継がれていないから

引き継ぎ資料は、ほとんどが「手順」で埋まります。このシステムを開いて、この順にチェックして、ここに入力する。

手順は書けるんです。目に見えるので。

書けないのは「どういう時に、どう決めていたか」のほう。これは本人の中で自動化されていて、自覚がないまま毎日使っている情報です。手順書には出てきません。そして辞めたあとに電話がかかってくる用件は、ほぼ全部こちら側です。この件はA社とB社どちらを優先していましたか、この数字が例年と違うんですが去年はどうしましたか、この人からの依頼はいつも通していましたか。手順書を何ページ足しても、この種の質問は減りません。

引き継ぎ資料に載るもの・載らないもの

たいてい書いてある 作業の手順とシステムの操作方法 定例のスケジュール ファイルの保存場所 抜けていて、あとで聞かれる 例外が起きたとき、どこまで自分で決めていたか 誰に先に話を通していたか 過去に一度揉めた案件と、その時の落としどころ

右側が引き継がれていないと、後任は同じ失敗を最初から踏み直します。

だから3枚。手順の網羅をやめて、判断のほうに紙を割るという設計です。

1枚目:業務の一覧と、頻度

網羅ではありません。頻度順です。

やっている業務を全部書き出そうとすると終わらないので、「月に1回以上やっているもの」だけを並べます。年1回の作業は、その時期が来たら前任者に聞けばいい話で、資料の主役ではない。

1行の書き方はこれだけ。

  • 何を(業務名)
  • いつ(毎日/週次/月次と、締切の日)
  • 誰と(社内外の関係者)

これを頻度の高い順に並べると、たいてい15〜20行に収まります。後任がまず知りたいのは「明日から何が発生するのか」なので、この1枚がいちばん先に読まれます。

この1枚を渡せば、後任は最初の1ヶ月を自力で回せます。

2枚目:判断基準。ここが本体

3枚のうち、価値はここに集まります。

書き方は「過去に迷った場面」を思い出す形が早いです。手順を思い出そうとすると出てきませんが、困った場面は覚えているので。

  • どんな場面だったか(1行)
  • そのとき何を基準に決めたか(1行)

例えば納期と品質がぶつかった時にどちらを取っていたか。イレギュラーな依頼が来た時、自分で判断していた範囲と上長に上げていた範囲の線はどこか。同じ依頼でも相手によって対応を変えていたなら、その理由は何か。こういうものを5個から10個。これだけで後任の1ヶ月が変わります。

ぶっちゃけ、ここを書ける人はあまり多くありません。自分の判断を言語化する機会が仕事の中にほとんどないからです。

だから完璧を目指さなくていい。思い出せた5個で十分です。

3枚目:連絡先と、地雷

最後の1枚は実務的な地図です。

社内外の窓口を、役割ではなく人で書きます。「経理部」ではなく「経理部の◯◯さん。請求書の締切の例外はこの人が判断している」。組織図を見れば部署は分かりますが、誰が実際に決めているかは載っていないので。

そして地雷。

触れると面倒になる案件や、機嫌を損ねると話が止まる相手。これを書くのは気が引けますが、書かないと後任が最短距離で踏みます。書き方は評価ではなく事実で。「◯◯さんは事前連絡なしの依頼を嫌う。3日前に一報を入れると通りやすい」。こう書けば、悪口ではなく運用の情報になります。

私が見てきた中で「この人の引き継ぎは助かった」と後任が言っていたケースは、だいたいこの1枚があった案件でした。逆に、後任が入って最初の1ヶ月で疲弊してしまう典型が、誰に何を先に通すべきかを知らないまま正面から依頼を出してしまい、そこで一度こじれた関係を半年かけて修復することになる、というパターンだと思います。本人の能力の問題ではないのに、本人が落ち込む。あれを見るのはけっこうつらいです。

書かなくていいこと

最後に、削っていいものを。

  • 自分にしかできない工夫。後任は同じやり方をしません。むしろ縛りになる
  • システムの操作手順。マニュアルがあるならリンクを貼るだけでいい
  • 業務の背景説明。歴史を語り出すと止まらなくなります

3つ目が一番よくある落とし穴です。「なぜこの業務があるのか」を書き始めると、体感で資料が3倍になります。しかも後任はその時点では読めません。背景が必要になるのは半年後で、その頃には本人が自分で理解しています。

たぶん、書いている側が不安なんだと思います。ちゃんと残していかないと無責任だと思われるんじゃないか、自分がいなくなったあとに困らせるんじゃないか、という気持ちが、そのまま資料のページ数になっていく。その気持ち自体はまっとうなものですし、真面目な人ほどここで時間を溶かします。ただ、後任にとってありがたいのは分量ではなくて、最初の1ヶ月に必要なものが3枚に絞ってあることのほうなんですよね。

引き継ぎ資料は、後任が最初の1ヶ月を生き延びるための紙です。それ以上を目指さなくていい。

3枚を渡したあと、ひとつだけ

資料を渡して終わり、にしないほうがいい部分があります。

最終出社日の前に、後任と1回だけ実物を見ながら話す時間を取ってください。 30分で十分です。資料を読ませておいて、その場で質問だけ受ける。ここで出てくる質問が、たいてい2枚目に書き漏らした判断基準そのものなんです。その場で追記すれば、退職後の電話が確実に減ります。

30分。それだけです。

引き継ぎまで来た人は、あとは手続きだけ。順番の話は退職前後の手続きにまとめました。まだ切り出せていない人は退職の引き止め4パターンから読んでください。転職活動の全体像は転職活動の全体地図です。