内定が出た。うれしい。でも提示された年収が思っていたより低い。

ここで大半の人が固まります。「交渉したら内定を取り消されるんじゃないか」「欲張りだと思われないか」。先に答えを書くと、年収交渉で内定が取り消されることは実務上ほぼありません。ですけど、通る交渉と通らない交渉ははっきり分かれます。分ける線はあなたの熱意でも粘り強さでもなく、採用側の決裁の構造なんです。

この記事は三面すべてを使います。提示年収を算定して稟議を回していた人事企業とその交渉を仲介していた元エージェント、そして自分でも交渉した転職経験者。同じ年収交渉でも、どこまで調整できるか、何を確認するかはそれぞれ異なります。

提示年収は、こうやって決まっている

内定年収が決まるまで(採用側の内部工程)

1 ①ポジションの予算枠 求人を出す時点で「◯〜◯万」の上限が決裁されている 2 ②社内等級への当てはめ 面接評価をもとに、社内の等級表のどこに置くか決める 3 ③既存社員とのバランス 同じ等級の在籍者と逆転しないか確認(ここが最大の壁) 4 ④前職年収の参照 大きく下げると辞退される、上げすぎると③が崩れる 5 ⑤決裁 枠内なら部門長で完結。枠を超えると上位決裁が必要になる

鍵は②③⑤です。

まず、提示額は個人の値付けではなく社内の等級表への当てはめです。だから「もっと欲しい」だけでは動きません。動かすには「等級の置き場所が一つ上ではないか」という論点にする必要があります。次に③。同じ等級の既存社員より高い額は、まず出せません。これは会社が意地悪なのではなく、給与の内部公平性が崩れると既存社員の離職が起きるからです。私が人事として一番断りづらかったのは能力的には妥当なのに、この一線に引っかかる要求でした。ここは金額の問題ではなく構造の問題なので、粘っても動きません。

そして⑤。枠内なら現場の判断で即動きます。求人を出す時点で「このポジションは600〜700万」と決裁が下りていて、提示が620万なら680万への変更は稟議不要で通ることがある。

最初の提示は上限ではなく、枠の下寄りであることが珍しくない。ここが交渉の余地の正体です。

通る交渉と、通らない交渉

何が交渉を分けるか

通らない 「もう少し上げていただけませんか」だけ 生活費・住宅ローンを理由にする 提示額の根拠を聞かずに数字だけ返す 承諾の意思を示さないまま金額だけ詰める 通る 現年収・他社提示という外部基準を示す 担う業務範囲の広さを等級の論点にする 提示額の算定根拠を先に聞いてから返す 「この額なら承諾します」と着地点を明示する

最も効くのは右下の「着地点の明示」です。採用側にとって交渉のコストは、金額そのものより「上げても来ないかもしれない」という不確実性です。だから「◯万円であればその場で承諾します」と言われた瞬間、稟議を通す理由が立ちます。逆に金額だけ動かして返事を保留されると、社内で動かす動機がなくなる。

外部基準も強い。

現年収の証明(源泉徴収票は入社時にどのみち提出します)、他社の提示。これらは「あなたの希望」ではなく「市場の事実」として扱えるので、決裁を通す材料になります。自分の市場価値の測り方は市場価値の調べ方の考え方とも接続します。

一方、生活事情を理由にするのは効きません。冷たく聞こえますが、等級表を動かす材料にならないからです。人事が稟議に「本人の住宅ローンのため」とは書けない。同じ切実さを伝えるなら「現年収から下がると家族の合意が取れず、承諾が難しい」と辞退リスクの形に翻訳したほうが社内では通ります。

エージェント経由と、直接交渉の違い

同じ交渉でも、誰が言うかで通り方が変わる(写真はイメージ)
同じ交渉でも、誰が言うかで通り方が変わる(写真はイメージ)

ここが元エージェントとして一番書いておきたい部分です。

エージェント経由の交渉には、構造的な追い風と向かい風が両方あります

追い風。エージェントの報酬はあなたの年収の一定割合の成功報酬です(相場は理論年収の3割前後)。あなたの年収が上がればエージェントの売上も上がる。利害が一致しているので交渉を代行する動機は本物です。しかも第三者が言うのであなたが直接言うより角が立たない。「本人は言いにくいでしょうが」と前置きしてくれるのは、実務的にかなり大きい。向かい風。

エージェントにとって最悪の結末は決定が流れることです。交渉が長引いて内定辞退や企業の心変わりが起きると、報酬はゼロになる。だから担当者によっては数十万円の上積みより確実な決着を優先します。「この額が上限だと思います」と言われたとき、それが企業の言葉なのか担当者の判断なのかは外からは見えません。

対処法は一つ。

交渉を頼むときに着地点と、そこに至らなかった場合の自分の意思を明確に伝えることです。「700万なら即承諾、650万でも承諾はする」と伝えれば担当者は650万で決めにいきます。「700万に届かなければ他社を選ぶ」と伝えれば、担当者は本気で取りにいきます。あなたが渡した情報の範囲でしか代理人は動けません。

直接交渉の場合は逆に遠慮が壁になります。相手は入社後の上司かもしれない人事です。ここで有効なのは交渉ではなく確認の形にすること。「ご提示の額は、社内のどの等級での想定でしょうか。将来的な上がり方も含めて教えていただけますか」。等級の話に持ち込めれば、金額の直接対決を避けたまま論点が動きます。

取り消しにならない線・なる線

最後に。

一番怖がられている点に答えます。年収交渉そのものを理由に内定が取り消されることは実務上ほぼありません。理由は2つ。まず採用側はここまでの選考に相当なコストをかけていて、金額の話が出た程度でやり直したくない。そしてもう一つ。採用内定は法律上、単なる約束ではなく労働契約の成立と扱われます(始期付・解約権留保付労働契約。大日本印刷事件・最高裁昭和54年7月20日判決で確立した考え方です)。取り消しは事実上の解雇に近く、企業側は簡単に切れないんです。

とはいえ、印象を損ねる線はあります。

  • 承諾後に蒸し返す。一度承諾した条件を後から動かすのは信頼の問題になります。交渉は承諾前に一回で。
  • 何度も往復する。1回目で着地点を出し、2往復以内で決めるのが実務の作法です。
  • 年収以外の全条件を同時に詰める。入社日・役職・在宅可否を全部同時に出すと、決裁が複数部署に分かれて止まります。優先順位を1つに絞る。

そして交渉が通らなかったとき。「上げられませんでした」で承諾するかどうかは、金額ではなく等級と昇給の見通しで判断してください。初年度が50万低くても、等級が一つ上で昇給の刻みが大きければ3年で逆転します。私が人事として提示を作っていたときも、初年度額より「入り口の等級をどこにするか」のほうがその人の生涯賃金にはるかに大きく効いていました。交渉すべきは金額ではなく、入り口の高さです

交渉に入る前に、いま手元にある提示の中身を分解しておくと話が早くなります。固定残業が何時間分か、賞与の見込みが年収に入っているか、どの等級での想定か。内定・オファー確認シートの「年収の中身を分解する」に、聞く順で並べてあります。

条件が固まったら、次は承諾か辞退かの判断です。→ 内定承諾・辞退の判断と作法 / 待たされている段階の人は選考結果が遅い理由へ。シリーズの地図は転職活動の全体地図です。